著名自分史「井伊直政」

オリジナル

井伊 直政

いい なおまさ

井伊 直政

1561年~1602年

80

武田の精鋭と「赤備え」を率いた「徳川四天王」の出世頭にして寝返り工作を担った関ヶ原勝利の殊勲者、近江佐和山藩18万石を継いだ次男井伊直孝が将軍徳川秀忠・家光の信任を得て譜代筆頭彦根藩30万石を確立

寸評

基礎点 80点 井伊直政は、武田の精鋭と「赤備え」を率いた「徳川四天王」の出世頭にして寝返り工作を担った関ヶ原勝利の殊勲者、近江佐和山藩18万石を継いだ次男井伊直孝が将軍徳川秀忠・家光の信任を得て譜代筆頭彦根藩30万石を確立した。遠江の古豪の嫡子だが生後間もなく父が主君今川氏真に誅殺され零落した。仇敵氏真を滅ぼした徳川家康に14歳で出仕すると、家柄が良く美男子の井伊直政は寵遇され(男色相手の寵童説あり)旧領井伊谷を回復、1582年家康の養女を娶り子飼いの旗本先手役に登用され甲州征伐に活躍、本能寺事変後の家康の伊賀越えに随行し、天正壬午の乱で北条氏政との講和を纏め政治的手腕を発揮、家康は家臣団を持たない直政に武田遺臣と山県昌景の「赤備え」を承継させ井伊谷4万石に加増した。「赤備え」を率い小牧・長久手の戦いで武功を挙げた井伊直政は若輩ながら「徳川四天王」の一角に躍進し6万石に加増、1590年家康の関東移封に伴い家中最大の上野箕輪城12万石(高崎城へ移動)に封じられた。1600年外交を託された井伊直政は、家康の養女栄姫との縁談で黒田官兵衛・長政父子を抱込んで小早川秀秋・吉川広家を篭絡し、京極高次・加藤貞泰・稲葉貞通・関一政・相良頼房ら豊臣賜姓大名の調略も成功させた。そして関ヶ原合戦、井伊直政は娘婿の松平忠吉(家康の四男)と共に先鋒の福島正則を出抜き先端を開くと、小早川秀秋の寝返り攻撃で戦局は一変し家康本隊を抑える毛利隊は吉川広家の妨害で動けず西軍は壊滅したが、不敵に中央突破を図る島津義弘を追撃し銃弾を浴びた(島津の退き口)。井伊直政は重傷をおして戦後処理に奔走、周章狼狽する毛利輝元を本領安堵の偽約で大阪城から釣出し、長宗我部盛親の改易処理・山内一豊の土佐入封支援や島津義弘との和平交渉を担当、家康の世子問題が起ると忠吉擁立に動いた。戦後の論功行賞で井伊直政は石田三成遺領を引継ぎ近江佐和山城18万石へ増転封となったが激務で鉄砲傷が悪化し翌年41歳の若さで病没、智勇兼備の中核を喪った幕閣では武功派と吏僚派の対立が深刻化した。後継の井伊直孝は譜代筆頭彦根藩30万石を確立し幕末の井伊直弼まで大封を保った。

史実

1561年 今川氏真家臣で遠江井伊谷城主の井伊直親の嫡子に井伊直政が出生

1561年 [小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る

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1561年 斎藤道三を殺害して美濃国を奪った斎藤義龍が病死(ハンセン病ともいわれる)、嫡子斎藤龍興が家督相続

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1561年 [森部の戦い]斎藤義龍の死に乗じた織田信長が美濃に侵攻、森部村の守将長井利房・日比野清実らを討取り斎藤龍興の稲葉山城へ進撃するが攻略できず撤退~謹慎中の前田利家は真先駆けて突入し首級二つを挙げる活躍、信長から3年越しの勘気を赦免され加増を受けて(合計450貫)下級将校に連なる

1561年 織田信長家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の浅野長勝(姉の子浅野長政が家督相続)の養女で杉原定利(嫡子木下家定、その五男が小早川秀秋)の実娘ねね(北政所)と結婚(ねねの母方木下家への婿入り説が有力)

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1561年 [第4次川中島の戦い]啄木鳥戦法を見破った上杉謙信が敵本陣に斬り込み武田信玄に一太刀浴びせるが武田軍が防戦に成功、武田軍の被害も甚大で信玄の弟武田信繁や軍師山本勘助も戦死

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1561年 武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、武田信玄・北条氏康の猛攻を凌ぎ上杉輝虎(謙信)の関東計略を支えた上野箕輪城主長野業正が死去(享年70)し嫡子長野業盛が家督相続、「これで上野を手に入れたも同然」と勇んだ信玄は直ちに2万の大軍を率いて上野を攻めるが輝虎の来援で撤退、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る、輝虎は佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを攻め破り武蔵・下総・常陸・下野を席巻するが輝虎が帰国する度に反抗勢力が盛り返す堂々巡りに陥る

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1561年 ポルトガル人殺傷事件が発生し肥前平戸への来航停止、肥前三城主大村純忠は自領の横瀬浦へポルトガル船を誘致し平戸領主松浦隆信から南蛮貿易の利を奪取、2年後に改宗し日本初のキリシタン大名となる

1562年 [清洲同盟]三河岡崎城主の松平家康(徳川家康)が今川氏真を見限り織田信長の誘いに応じて攻守同盟締結、元康は三河の今川方諸城を攻め取り、東方の安全を確保した信長は清洲から小牧山に本城を移し美濃攻略に専念

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1562年 [久米田の戦い・教興寺の戦い]和泉岸和田城主十河一存(三好長慶の弟)の急死に乗じた畠山高政・安見宗房が近江の六角義賢と連携し細川晴之(晴元の次男)を担いで挙兵、三好長慶は三好義興(嫡子)・安宅冬康(弟)・松永久秀の奮闘で挟撃の危機を凌ぐが(高政を再追放して河内を回復し六角と和睦して京都を奪回)、一存と共に兄長慶を支えた三好実休が敗死、両翼を喪って弱体化した三好政権は反三好勢・将軍足利義輝の反抗に手を焼き家中では松永久秀の勢力が伸張

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交遊録

井伊直盛 桶狭間の戦いで戦死した遠江井伊谷城主
井伊直親 直盛を継いだ従弟・直政父
井伊直虎 直盛一女・直政養母
井伊直勝 廃嫡した直政長男
井伊直孝 彦根藩を継ぎ大加増された直政次男
近藤秀用 井伊谷三人衆・主君直政暗殺を企てるが後に帰参し井伊谷藩を立藩
菅沼忠久 井伊谷三人衆
鈴木重好 井伊谷三人衆
松平清康 家康祖父
松平広忠 家康父
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