著名自分史「本多忠勝」

オリジナル

本多 忠勝

ほんだ ただかつ

本多 忠勝

1548年~1610年

70

武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将

寸評

基礎点 70点 本多平八郎忠勝は、武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将、伊勢桑名藩10万石と上総大多喜藩5万石を獲得したが幕府創設で役割を終え本多正信・正純に主導権を奪われた。徳川(松平)最古参「安祥七譜代」に列する本多家の当主で、生後間もなく父忠高が織田信秀との合戦で戦死、補佐役の叔父忠真も三方ヶ原合戦で討死した筋金入りの三河武士である。1598年徳川家康が永い人質生活を終え岡崎城に帰還、翌年「大高城の兵糧入れ」で12歳の本多忠勝は初陣を飾り、桶狭間合戦で今川義元が討たれ三河衆は悲願の独立を達成、家康は凡愚な今川氏真と手を切り織田信長(信秀の嫡子)との同盟を選択した。武功を重ねる本多忠勝は19歳で家康子飼いの旗本先手役・将校に列し、姉川合戦では単騎駆けで朝倉陣を切裂き豪傑真柄直隆を一騎打ちで討取る活躍、1572年武田信玄に遠江二俣城を奪われた家康が出陣するが衆寡敵せず三河浜松城へ撤退、殿軍の本多忠勝は見事な武者ぶりで馬場信春・小杉左近の追撃を抑え武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された(一言坂の戦い)。翌年三方ヶ原の戦いで徳川軍は信玄に一蹴されたが、左翼を担う本多忠勝は「赤備え」の精鋭山県昌景隊を食止め殿軍の大役を果して家康を浜松城へ逃した。1582年堺見物中の家康を本能寺の変が襲うと随行の本多忠勝は殉死を制止して岡崎城へ生還させ、1584年小牧・長久手の戦いでは奇襲軍を破られ反撃に出た豊臣秀吉の大軍を僅かな手勢で食止め、第一次上田合戦では真田昌幸に敗れた徳川勢の撤退を指揮し娘を真田信之に縁付けて講和を纏めた。1590年小田原征伐に向け京都に参集した諸大名の前で秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と激賞され、家康の関東移封に伴い上総大多喜城10万石に入封、1600年関ヶ原合戦では井伊直政と共に実戦を指揮し要衝の伊勢桑名10万石(次男の本多忠朝が大多喜5万石を承継)へ配された。徳川幕府発足後は武功派の本多忠勝に用は無く家康は吏僚派を重用、本多正信を「腰抜け」と罵りつつも危険な政争に巻込まれることなく63歳の生涯を閉じた。

史実

1548年 松平広忠の家臣(安祥七譜代)本多忠高の嫡子に本多忠勝が出生

1548年 [第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる

詳細を見る

1548年 [天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭

詳細を見る

1549年 斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる

詳細を見る

1549年 三河岡崎城主松平広忠(徳川家康の父)が24歳で病死、松平家は今川家の完全な属国となる

1549年 [キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

1549年 今川義元と織田信秀の合戦で松平家・岡崎衆は今川方先鋒として三河安祥城を攻略し城主の織田信広(信長の庶兄)を確保(本多忠勝の父本多忠高が戦死)、太原雪斎の献策により竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が成立・竹千代は駿府に移され当主を人質にとられた松平家は今川の属国となり家臣は虐待され合戦ごとに最前線の危地に送られる

詳細を見る

1549年 [江口の戦い~細川政権崩壊と三好政権発足]三好長慶が細川氏綱・遊佐長教と提携し一門のライバルで細川晴元側近の三好政長を襲撃し政長以下800人を討取る大勝、晴元と将軍足利義輝は六角定頼を頼って近江坂本へ逃亡、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立して室町幕府の実権を掌握するが、以後9年も晴元・義輝との抗争は継続、三好家家宰の松永久秀は京都所司代の重職を与えられ40歳で歴史舞台に登場(摂津滝山城主・堺代官も兼務して富を築き三好家中第一の勢力家へ台頭)

詳細を見る

1550年 [二階崩れの変]豊後・肥後・筑後守護の大友義鑑が長子義鎮の廃嫡を企て反対派の重臣を誅殺するが反撃に遭って擁立を企てた三男到明と共に討取られ(義鎮の陰謀疑惑が濃厚)、大友義鎮(宗麟)が戸次鑑連(立花道雪)の後見を得て家督相続、義鑑に加担した入田親誠は岳父の阿蘇惟豊を頼って肥後に逃れるが鑑連に攻められて自害に追込まれる

詳細を見る

1550年 ポルトガル商船が肥前平戸へ来航し南蛮貿易がスタート、平戸領主松浦隆信と肥前の領袖有馬晴純(大村純忠の実父で有馬晴信の祖父)は貿易の利で勢力を伸ばすがキリスト教は禁断

もっと見る

交遊録

本多忠高 安祥城攻略戦で戦死した譜代重臣・忠勝父
本多忠真 忠勝を補佐した忠高弟
本多忠政 忠勝嫡子
本多忠刻 早世した忠政嫡子・千姫を娶って10万石加増
本多政朝 忠刻から宗家を継いだ忠政次男
本多忠朝 大坂陣で戦死した忠勝次男・上総大多喜藩初代
本多政勝 忠朝嫡子
本多重次 三河三奉行
都築秀綱 本多筆頭家老
梶勝忠 本多家老
もっと見る