著名自分史「石原莞爾」

オリジナル

石原 莞爾

いしはら かんじ

石原 莞爾

1889年~1949年

80

「世界最終戦争論」「五族協和」を唱えて満州事変を起し、永田鉄山斬殺事件後の陸軍中央を掌握し日中戦争不拡大を説くが、武藤章・田中新一ら統制派に敗れ東條英機に政治生命を絶たれた「陸軍随一の天才」

寸評

基礎点 80点 奇行が多いが成績抜群の石原莞爾は陸士時代から「陸軍随一の天才」と称され、永田鉄山の「一夕会」に加盟し「満蒙領有方針」の急先鋒となった。関東軍参謀に就いた石原莞爾は、永田鉄山ら陸軍中央の慎重論を無視し板垣征四郎と共に柳条湖事件を決行、若槻禮次郞内閣の追認を得て満蒙を武力制圧し、第一次上海事変、満州国建国までを主導した。一夕会が分裂し皇統派が永田鉄山斬殺事件を起すと無党派の石原莞爾が陸軍中央の指導的地位に就き、二・二六事件では戒厳司令部参謀として反乱将校の断罪と皇統派の粛清を主導、参謀本部に作戦部を設置し権限を集中した。日中戦争が勃発すると、中国革命運動のシンパで「五族協和」を志す石原莞爾はアメリカとの最終戦争に備えるべく(世界最終戦争論)日中講和に奔走したが、強硬に中国侵出(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と対立、第一次近衛文麿内閣が講和を蹴り日中戦争拡大方針を採ったため失脚した。不拡大派は陸軍中央から一掃され、石原莞爾は関東軍参謀副長へ左遷、犬猿の仲の東條英機が陸相に就くと政治生命を絶たれた。鮮やかな作戦指揮で寡兵をもって満蒙を席巻し、陸軍・政府・マスコミへの根回しで満州事変を成功させた石原莞爾の奇才は疑うべくもないが、結果として日本が戦争に負けため評価は実に複雑である。石原莞爾が独断専行で関東軍を動かしたことは重大な軍法違反であり、上役の荒木貞夫や東條英機をバカ呼ばわりする傲慢さも陸軍の集団暴走に先鞭を付けた。また十月事件を起した橋本欣五郎は石原莞爾の親友で処罰に反対している。が、植民地収奪競争が熾烈な当時の世界情勢において「無主の地」満州は共産ソ連の格好の標的であり、中国が崩壊するなか朝鮮の防衛上譲れない地勢を占めていた。アジア諸国が結束し西洋列強の収奪を防ぐという石原莞爾の戦略も至極妥当なもので、国土と資源の乏しい日本は大陸に出る他なく、満州事変後の軍需バブルで逸早く世界不況を脱した現実もある。石原莞爾の戦略に従い華北を攻めず満州に留まっていれば、日中戦争泥沼化も英米との衝突も無く日本は朝鮮・満蒙を維持しアジアの盟主になった蓋然性が高い。

史実

1837年 関東軍参謀長の東條英機が察哈爾派遣兵団を率いて出陣し独断で日中戦争の戦線を拡大

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1889年 飯能警察署長(庄内藩士の家系)石原啓介の嫡子(三男)石原莞爾が山形県西田川郡鶴岡にて出生

1902年 石原莞爾が仙台陸軍地方幼年学校入学(主席卒業)

1904年 日露戦争開戦

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1905年 石原莞爾が東京陸軍中央幼年学校入学

1905年 ポーツマス条約調印

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1906年 第二次日韓協約締結、日本が朝鮮を保護国化し文治派の伊藤博文が初代韓国統監に就任

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1906年 南満州に関東都督府設置

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1906年 南満州鉄道会社(満鉄)設立・後藤新平が初代総裁就任、アメリカの干渉が始まる

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1907年 韓国軍隊解散、ハーグ密使事件、第三次日韓協約締結

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交遊録

永田鉄山 偉大なリーダー
小畑敏四郎 一夕会仲間
岡村寧次 一夕会仲間
板垣征四郎 盟友
河辺虎四郎 盟友
多田駿 盟友
東條英機 宿敵
武藤章 暴走下僚
田中新一 暴走下僚
土肥原賢二 一夕会仲間
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