著名自分史「武田勝頼」

オリジナル

武田 勝頼

たけだ かつより

武田 勝頼

1546年~1582年

20

織田信長に決戦を挑むも長篠の戦いで致命的惨敗、無闇な外征と佞臣重用で家臣団に見放され御館の乱で上杉景勝に乗換え生命線の甲相同盟が破綻、織田信長・徳川家康・今川氏政に挟撃され自滅した武田信玄の跡取り息子

寸評

基礎点 20点 武田勝頼は、長篠の戦いで織田信長に惨敗し、無闇な外征と佞臣重用で家臣団に見放され御館の乱で上杉景勝に乗換え生命線の甲相同盟が破綻、織田・徳川・今川に挟撃され自滅した武田信玄の跡取り息子である。信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘に産ませた四男で諏訪氏の名跡と信濃高遠城を継いだが、長兄武田義信の廃嫡に伴い世子となり、信長の養女(姪)を娶り嫡子信勝をもうけた。1573年信玄死去により甲斐・信濃・駿河3国と上野・遠江・三河に及ぶ大封を承継すると、側近の長坂釣閑・跡部勝資を寵遇し歴戦の信玄遺臣との軋轢を深め信玄の遺志に背いて短兵急な外征を開始、織田領東美濃の明知城を攻略し徳川領東遠江の高天神城を奪取し、内通した大賀弥四郎が家康に誅殺されると兵1万3千で三河長篠城を攻囲するが奥平貞昌の抵抗に遭った。1575年徳川軍8千と織田軍3万が来襲、信玄遺臣は甲府撤退または長篠城攻城を説くが勝頼は野戦を決断、馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など武将の大半を喪う惨敗を喫した(長篠の戦い)。甲斐に逃げ戻った武田勝頼は、北条氏政の妹を継室に迎えて甲相同盟を固め将軍足利義昭・本願寺顕如を通じて上杉謙信と和親したが、1578年謙信が信長討伐の号令直後に急逝し養子の上杉景勝(謙信の甥)・上杉景虎(北条氏政の実弟)の家督争いが勃発、勝頼は氏政の要請で出陣するが長坂・跡部の策動で景勝へ乗換え(御館の乱)、宿敵上杉家を降すも肝腎の甲相同盟が破綻した。真田昌幸の活躍で北条領東上野を席巻したが家康に高天神城を奪還され城兵を見捨てた武田勝頼の権威は失墜、信長に人質を返して講和を図るが拒絶された。1582年畿内を平定した信長は木曽義昌(信玄の娘婿)の寝返りを機に甲州征伐に乗出し織田・徳川・今川の軍勢が三方から甲斐へ侵入、駿河の守将穴山信君(同娘婿)は寝返り伊奈口の武田信廉(同弟)らは逃亡、孤立した武田勝頼は韮崎新府城を落ちて郡内(大月)岩殿城へ辿着くが小山田信茂の寝返りで入城を拒まれ長坂・跡部まで遁走、天目山麓で追詰められた勝頼は嫡子信勝・一族郎党90余人と共に自刃し武田氏は滅亡した(天目山の戦い)。

史実

1546年 武田晴信(信玄)の側室諏訪御料人が武田勝頼を出産、信玄が滅ぼした諏訪氏の世継ぎとして高遠城で養育される

1547年 武田晴信(信玄)が信濃佐久の村上義清領に侵攻、志賀城を落とし北進して村上勢を圧迫

1547年 三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)

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1547年 [加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡

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1548年 [上田原の戦い・塩尻峠の戦い]信濃の覇権を賭けて武田晴信(信玄)が葛尾城の村上義清に決戦を挑むが宿老板垣信方・甘利虎泰の戦死を含む大損害を出し侵攻停止、村上義清に呼応した小笠原長時が諏訪に攻め寄せるが再起不能の大敗を喫し深志(松本)林城に逃げ戻る

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1548年 連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成

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1548年 [第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる

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1548年 [天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭

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1549年 斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる

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1549年 [キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

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交遊録

武田信虎 祖父
武田信玄
武田信繁 武田二十四将の信玄弟
武田信豊 共に滅んだ信繁嫡子
武田信廉 武田二十四将の信玄弟
河窪信実 信玄弟
武田信俊 旗本となった信実嫡子
武田義信 信玄が廃嫡し自害させた嫡子
武田信親 盲目の信玄次男・子孫は徳川幕府高家となり家名存続
武田信勝 共に滅んだ嫡子
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