著名自分史「高杉晋作」

オリジナル

高杉 晋作

たかすぎ しんさく

高杉 晋作

1839年~1867年

110

吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄

寸評

基礎点 120点 高杉晋作は、吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄である。維新直前に早世し他藩や朝廷との交流に批判的だったことから知名度は「維新の三傑」に及ばないが、高杉晋作なくして長州藩の復活は無く、薩長同盟の形で討幕が実現することも無かった。高杉晋作は、師匠である吉田松蔭の理論や尊攘派同志の枠から離れて独創的な防長割拠論を唱え、洋式軍備の導入に取組み、日本初の近代的民兵組織である奇兵隊などの諸隊を創設した。長州藩の同志達が公武周旋や過激な攘夷論で浮かれるなか、一人冷静に現実を見据えていた。久坂玄瑞が松陰から受継いだ草莽崛起論が禁門の変で瓦解した後、最後には自分が思い描いた通りの防長割拠を実現、高杉晋作の思想と政策は明治政府にも継承された。自我が強く天邪鬼的な性質もあったように思えるが、独創性と実現力は正に天才というべきだろう。
-10点 高杉晋作は、討幕の総仕上げを見ることなく27歳で無念の死を遂げた。

史実

1839年 長州藩の中級藩士高杉小忠太の嫡子高杉晋作が萩城下にて出生

詳細を見る

1840年 アヘン戦争(~1842)

詳細を見る

1842年 異国船打払令を緩和し薪水給付令施行

1846年 高杉晋作が吉松淳蔵の家塾へ通う

詳細を見る

1848年 高杉晋作が天然痘を患う

1850年 井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す

1851年 吉田松陰が東北旅行へ出奔、手続き不備のため脱藩の罪を得る

1852年 江戸桜田藩邸に戻った吉田松陰が萩へ召還され脱藩罪により士籍・家禄剥奪のうえ杉百合之助の「育み」とされる

1852年 高杉晋作が藩校明倫館に就学、長州藩剣術師範の内藤作兵衛より柳生新陰流の免許皆伝を受ける

詳細を見る

1852年 彦根藩主井伊直弼が長野主膳を知行150石で藩士に召抱え藩校弘道館の国学教授に任じる

詳細を見る
もっと見る

交遊録

毛利敬親 主君にして良き理解者
毛利定広 敬親養嗣子の長州藩世子・小姓として臣従
吉松淳蔵 寺子屋の先生
内藤作兵衛 剣術の先生
吉田松陰 大師匠
久坂玄瑞 松下村塾の双璧
吉田稔麿 松下村塾の四天王
入江九一 松下村塾の四天王
伊藤博文 松下村塾生・高杉舎弟
山縣有朋 松下村塾生・奇兵隊後任
もっと見る