著名自分史「本願寺蓮如」

オリジナル

本願寺 蓮如

ほんがんじ れんにょ

本願寺 蓮如

1415年~1499年

90

家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた布教の天才にして27人も子を生した精力家、曾孫顕如の代に摂津・加賀の「戦国大名」へ発展するが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し準皇族の権勢を保持

寸評

基礎点 90点 本願寺蓮如は、家祖親鸞が起した浄土真宗を再興し平易な『御文』と辻説法で強大な一向教団を築いた布教の天才にして27人も子を生した精力家、曾孫顕如の代に摂津・加賀の「戦国大名」へ発展するが織田信長に降伏して武力を放棄、子孫は今日まで東西本願寺の門首を世襲し準皇族の権勢を保持する。親鸞没後150年余、浄土真宗は衰退し一派の本願寺は天台宗青蓮院傘下の荒れ寺に没落していた。親鸞の子孫本願寺7世存如の庶長子に生れた蓮如は、16歳で得度し興福寺大乗院門跡の経覚のもとで修行を積み、1457年32歳のとき存如の死に伴い住持職を継いだ。京畿に土一揆が頻発する物騒な世相のなか、1465年天台宗の総本山比叡山延暦寺は独立姿勢を強める蓮如を仏敵とし拠点の京都東山大谷本願寺を破壊、蓮如は近江を彷徨い浄土真宗高田派の専修寺真慧から絶交されるが(寛正の法難)2年後に延暦寺に帰順し大谷本願寺を再建、和解条件の蓮如の隠居と順如(長男)の廃嫡はうやむやにした。応仁の乱で京都が荒廃するなか蓮如は精力的に教線を延ばし、大津に顕証寺・越前に吉崎御坊を建立、吉崎には北陸から奥羽の門徒が参集し繁華な寺内町を形成した。1474年蓮如は加賀守護富樫成春の後継争いに介入し富樫政親に加担して弟の富樫幸千代を追放するが宗徒が暴徒化して一向一揆へ発展、政親に弾圧された一揆衆は越中瑞泉寺に退避し蓮如は吉崎御坊から逃れ流浪の末に京都山科本願寺に落ち着いた。1481年浄土真宗佛光寺派の跡取り息子経豪が末寺の大半を従えて蓮如に帰順、蓮乗(次男)率いる越中一向一揆は福光城主石黒光義を返討ちにして砺波郡を支配下に収め、勢いを得た蓮如は紀伊へ教線を伸張(鷺森別院へ発展し紀州雑賀衆の根拠地となる)、1488年蓮綱(三男)・蓮誓(四男)・蓮悟(七男)率いる加賀一向一揆は国人衆と共に守護富樫政親を討ち滅ぼして加賀一国を制圧、以後90年続く「百姓の持ちたる国」を現出させた。蓮如は翌年実如(五男)に法首を譲るが最期まで布教に励み、摂津大坂に石山御坊(後の石山本願寺、顕如退去後の跡地に豊臣秀吉が大阪城を築く)を築いた3年後に85歳で大往生を遂げた。

史実

1415年 本願寺7世存如の庶長子本願寺蓮如が京都東山の大谷本願寺にて出生(生母は和泉信太の賤民とされる。浄土真宗は衰退し本願寺は天台宗青蓮院傘下の荒れ寺であった)

1416年 [上杉禅秀の乱]関東管領を追われた上杉憲定が関東の豪族を率いて挙兵し鎌倉公方足利持氏を駿河に追放、持氏支持の将軍足利義持は追討軍を派遣、敗れた上杉憲定は自害

1419年 倭寇に手を焼いた李氏朝鮮が根拠地の対馬を攻撃、宗氏武士団が撃退(応永の外寇)

1423年 足利義持が隠居し嫡子の足利義量が5代室町将軍就任

1425年 将軍足利義量死去、将軍空位のまま前将軍足利義持が幕府を掌握

1428年 近江坂本・大津の馬借から起った徳政強訴が畿内一帯に波及し初の農民一揆発生(正長の土一揆)

1428年 前将軍足利義持死去、義持の弟4人から籤引きで選ばれた天台座主義円が還俗して足利義教として6代室町将軍就任、将軍位を狙う鎌倉公方足利持氏が反抗

1431年 本願寺蓮如が本山の天台宗青蓮院で得度、興福寺大乗院門跡の経覚(母親が本願寺氏)のもとで修行を積む

1435年 将軍足利義教が反抗する延暦寺を武力制圧、24人の門徒が抗議の焼身自殺

1436年 足利義満の寵愛により時宗念仏踊り・猿楽から幽玄能を創始した『風姿花伝』の著者世阿弥(観世氏の家祖観阿弥の子)が佐渡流刑に処される

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交遊録

本願寺巧如 祖父・本願寺6世
本願寺存如 父・本願寺7世
順如 早世した優秀な嫡子
蓮乗 次男・越中一向一揆指導者
蓮綱 三男・加賀一向一揆指導者
蓮誓 四男・加賀一向一揆指導者
本願寺実如 本願寺9世を継がせた五男
蓮淳 六男・伊勢長島願証寺開基で証如を後見
蓮悟 七男・加賀一向一揆指導者
本願寺証如 実如嫡子・本願寺10世
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