著名自分史「鈴木貫太郎」

オリジナル

鈴木 貫太郎

すずき かんたろう

鈴木 貫太郎

1868年~1948年

90

二・二六事件で重傷を負うが軍部暴走への抵抗を貫き、第二次大戦末期に昭和天皇の懇請を受けて首相となり見事に幕引き役を果した硬骨の海軍人

寸評

基礎点 90点 徳川譜代の関宿藩出身で海兵(14期)・海大の成績も凡庸な鈴木貫太郎は海軍のエリート・コースから外れ、山本権兵衛の目に留まることもなかったが、日露戦争の活躍など叩き上げの「水雷屋」として頭角を表し、シーメンス事件も追い風となり海軍最高位の軍令部長・連合艦隊司令長官に栄達した。予備役編入後、侍従長へ転じた鈴木貫太郎は天皇側近の一員に加わるが、軍拡に反対する重臣グループは過激派から「君側の奸」と敵視され、鈴木は二・二六事件で反乱部隊に襲撃され3発の銃弾を受け瀕死の重傷を負った。テロに怯えた西園寺公望や木戸幸一が抑止役を放棄するなか、奇跡的に蘇生した鈴木貫太郎は枢密院の重鎮として軍部専横への反抗姿勢を貫き、太平洋戦争末期、昭和天皇の懇請により「終戦内閣」を引受けた。77歳の老骨に鞭打ち首相に就任した鈴木貫太郎は、米内光政(海兵29期)海相・東郷茂徳外相や重臣の岡田啓介(15期)らと連携し、強硬に「本土決戦」を主張する陸軍の干渉を巧みにかわし、昭和天皇の「聖断」によりポツダム宣言受諾を決定、クーデター未遂事件(宮城事件)の危難も乗越え、大日本帝国の幕引き役を演じ切った。艦隊勤務時代に「鬼貫」と渾名された鈴木貫太郎の硬骨は老いてなお健在で、命の危険を顧みず文民統治の役割を全うした。なお鈴木貫太郎内閣の失策として、望みの薄いソ連を仲介とする対米講和交渉に徒に時間を費し、ポツダム宣言発表当初の「黙殺」発言が終戦を長引かせ原爆投下やソ連軍侵攻の悲劇を招いたとする批判がある。確かに事実ではあるが、兵力を内地に集結させ「本土決戦」を叫ぶ陸軍は狂信者集団と化しており、首相といえどもダマシダマシ進めるしかない情勢であった。また、原爆使用はトルーマン米政権の規定路線であり(スターリンの満州侵攻も)、悪魔の所業を正当化するため鈴木貫太郎内閣の「黙殺」に責任を転嫁したとみるべきだろう。むしろ、内も外も敵だらけで物騒極まる状況にあって、天皇の「聖断」を演出し、内乱やクーデターを起させることなく終戦にこぎつけた鈴木貫太郎首相の手腕は鮮やかであった。戦後3年目、米内光政の死の3日後に鈴木貫太郎は80年の生涯を閉じた。

史実

1868年 下総関宿藩士で和泉伏尾新田代官の鈴木由哲の嫡子に鈴木貫太郎が出生、幼少期に関宿に転居

1887年 鈴木貫太郎が海軍兵学校(14期)卒業

1888年 鎮台制を師団制に改編

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1889年 大日本帝国憲法発布

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1891年 山本権兵衛が西郷従道海相のもと海軍省大臣官房主事に就き海軍の分離独立改革を断行

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1893年 日清戦争準備の作戦会議、伊藤博文首相が川上操六(陸軍)・山本権兵衛(海軍)の開戦論を採用

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1893年 海軍軍令部設置

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1894年 朝鮮で甲午農民戦争、日清両軍が朝鮮へ派兵し一触即発

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1894年 日清戦争勃発、鈴木貫太郎は水雷艇艦長として威海衛攻略で活躍

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1895年 下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立

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交遊録

山本権兵衛 海軍の父
加藤友三郎 偉大な先輩
斎藤実 山本の副官
米内光政 盟友
山本五十六 悲劇の同志
井上成美 同志
岡田啓介 同志
吉田善吾 弱すぎたか
野村吉三郎 同志
大角岑生 海軍仲間
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